塾長

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こんにちは、塾長の大久保です

 

 

 

 

今日は1月2日です
世の中、まだまだ
お正月のんびりモードですね

 

 

 

 

僕は
もちろん
朝から授業ですね笑

 

 

 

朝から図形問題や確率の問題を
生徒と一緒に解きます

 

 

 

人生の向かい風に吹かれながら
それでもなんとか合格しようと
頑張る受験生を
こんなに傍で
応援できるこの仕事
僕は本当に好きです

 

 

 

 

さてさて
今日は身内の話

 

 

 

 

 

 

2019年は
じつは僕の父がリンパの癌で
闘病生活をした年でもありました

 

 

 

 

 

 

 

 

父と母は
大阪大学在学中に結婚しました
父は大学院、母は学部を出て
僕が誕生
父は大手の会社の研究職を断り
自分で塾を始めます

 

 

 

 

 

 

 

 

 

母から聞いたのですが
はじめは生徒がいなくて
大変だったそうです

でもそれが
ひとりふたりと
生徒が増え始めていったそうです

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんな父が
2019年1月
自分の塾で授業をしているときに
生徒の前で倒れ
入院をすることになりました

 

 

 

 

 

 

 

検査の結果
悪性のリンパの癌で
全身に転移していて
そのときすでに
ステージ4でした

 

 

PETの画像を見ると

真っ黒でした

 

 

そのときは

主治医の先生と
僕と妹2人の3人で
直接お話させてもらって
父の死の
覚悟を決めました

 

 

 

 

 

 

 

 

父は
昔から厳しい人でした

男である僕には本当に厳しくて
僕を褒めるということを
全くしませんでした

 

 

 

 

 

 

 

 

でも
妹2人には父も母も優しくて
妹二人は父母を独占し
僕は
「しんちゃんは、お兄ちゃんだから大丈夫ね」
「うん」
いつも一人で遊んでいる
そんな感じでしたね

 

 

 

 

 

 

 

勉強をしなさいとか
一切言わなかった両親でしたので
僕は本当に一切せずで
高校生に進学

 

 

 

 

 

 

 

「しん、勉強はべつにせんでもいいけど
せんなりの(しないなりの)
未来が待ってるからな」
そんなことだけは
1度だけ言われたことがあります

 

 

 

 

 

 

 

 

僕は
父に見放されている
そんな寂しい気持ちを
抱えて生きてきたように
思います

 

 

 

 

 

 

 

大学に進学し
社会人になり
それでも
父は僕のことを誉めませんでした

 

 

 

 

 

 

 

 

出来のいい妹に比べて
本当に出来の悪い僕でしたので
僕のことなんか
どうでもいいと思っている

と、息子なりに思っていました

 

 

 

 

 

 

 

父は
癌になり
自分で経営する塾を
一旦閉じることを決めました

 

 

 

父の経営する塾は
じつは
父のこれまでの教え子さんの
御子息ばかりが生徒なのです

 

 

 

 

 

 

 

なので閉じてしまうなんて
それでは今来ている
生徒がかわいそうです

 

 

 

 

 

 

そう思い
息子として父の代わりに
代打として
数学を教えに行くことにしました

 

 

 

 

毎週1日の2時間だけ
それしか時間が取れませんでしたが
数学を教えに行きました

 

 

 

 

 

 

じつは
父が癌で倒れたことは
その塾生と保護者にはすぐに
伝わったのですが
塾を存続させるために
僕が表に立つということは
まだお知らせしていませんでした

 

 

ですので
保護者会を開いて
ご説明をさせていただきました

 

 

 

 

 

 

 

じつは
僕はその説明会で
「父は厳しい人で
出来の悪い僕のことなどきっと興味も
ないのです。
ですが、息子として、
退院した父が
好きで帰ってこれる場所を
作っておきたいのです。
息子のわがままですが、
どうかそのわがままに
付き合ってもらえませんか 」

と発表しました

 

 

 

 

 

 

そのとき
ある一人の保護者さんが

 

 

「あれ?塾長(父)は、息子さんのこと
授業ですっごく話するんですよ?
知らなかったんですか笑?」

 

 

「俺の息子は数学を教えて
今は、大阪で会社もしてて
俺を毎年旅行に連れて行ってくれるし
いつもおこずかいをくれる
俺の自慢の息子だ」

って何度も
言ってますよ?

 

 

全く知りませんでした
本当に知りませんでした

 

 

 

 

他にも
いろんなことを
教えてくれました

僕は
その話を聞いたとき

「なんでもっと早く気付かなかったのだろう」
「父が死ぬ前で本当に良かった」

そして
心の中にあった
大きな石が
とれたような
そんな気持ちになりました

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

父は一度だけ
僕ら3人の兄妹に謝ったことがあります

僕が18のときに
母が亡くなったのですが
そのとき
「お母さんのこと、本当に申し訳ない」
といって
泣きながら土下座をしました

 

 

あの厳しい父がです

 

 

僕ら兄妹は
そんな父を抱きかかえた
記憶があります

 

 

 

 

父は大変裕福な家庭で育ち
しかし途中から
大変貧しい家庭で
育ちました

 

 

 

 

 

 

東大出身の祖父が
実業家でした

東京世田谷の大きな一軒家に
大学生などを20人ほど住まわせ
お手伝いさんが大勢いたそんな家でしたが

 

 

 

 

 

 

 

事業に失敗し
億単位の多額の借金を抱えました

 

 

 

 

生活は転落したようですが
しかし
祖母も優秀な人で
その祖母が祖父の借金の返済と
家計と家族を
守りました

 

 

 

 

 

その苦労は
壮絶なものだったようです

そんな母(おばあちゃん)を見て
父を含め子供たちは
勉強に励んで全員国立大学に入り
国費で卒業したそうです

 

 

 

 

 

 

 

 

また父の兄は
大変優秀な成績をおさめ
その当時では考えられないことですが
国費で米国留学を叶え
今は海外で悠々自適な生活を送っています

 

 

 

グアムが観光都市として
ホテルなどが建設されたときの
大手ゼネコンの支社長で
今グアムに立ってるホテルの多くを
手がけたのがその兄(僕の叔父)です

 

 

 

 

そんな苦労人の祖母は
僕が国立大学の教育学部に入ったときは
泣いて喜んでくれました

 

 

 

おばあちゃんは未だに言います
「おじいちゃんも、お父さんも、しんちゃんも
数学ができるけど
おばあちゃんの言うことをきいて
教育学部に行ったのはしんちゃんだけだよ
お父さんなんて
おばあちゃんの言うことなんて全く聞かずに
工学部にいっちゃったんだから笑
本当は経済学部か教育学部に入れたかったのにね」
って。

 

 

 

僕も
おばあちゃんの言うことを

聞いたわけではないんですが
結果的にそうなったのですが
「だよね、おばあちゃ~ん」なんて
調子のいいことを言っています笑

 

 

 

祖父は仕事人間でした
父は
祖父と全く
うまくいっていませんでした

 

 

 

きっと
祖父は子供である父と
信頼できる親子関係を築くことなく
父は大きくなったのだと思います

 

 

だから
父は
僕とどのように接していいのか
わからなかったのだと思うのです
僕の推測ですが

 

 

 

父が悪いとかでなくて
父は「父」というものをきっと知らずに
父になったのだと思うのです

 

 

 

だから僕と
話すことができなかったのだと
思います

 

 

 

 

塾の生徒には
自分の家族の行事を
台無しにしてまで
かわいがるくせに
自分の息子には
話もしない

 

 

 

昔は
「最悪な父だ」と思っていましたが
父には
自分の塾が
生きがいだったのだと思うのです

 

 

 

 

父の闘病生活は
僕の妹が活躍してくれました
僕は経済的な面での
サポートに徹しました

 

 

 

 

 

抗がん剤の影響で
会うたびに痩せていく父

 

 

 

 

 

あの、威厳があって怖かった父の面影は
どこにもありませんでした

 

 

 

 

 

足に力が入らなくなり
一人で歩けなくなった父

 

 

 

 

 

 

 

病院のごはんも食べれなくなった父

 

 

 

 

 

 

 

息子として
覚悟をしました

 

 

 

 

 

 

中学生のころ
反抗期で
一度だけ母の腕を殴ってしまい
あざを作ってしまいました

 

 

 

 

その夜
僕は父から
これでもかというぐらい
殴られました

 

 

 

 

「俺のお母さんを
大事にしないやつは俺が許さん」と
本当に殴られ投げ飛ばされ
母が泣きながら
父を止めに入ったぐらいです

 

 

 

 

 

僕を投げ飛ばした父は
もうここにはいなく
やせ細った体に
髪の毛がぬけたことを隠すニット帽を頭にのせて
窓の外を見つめる父

 

 

 

 

 

 

大阪大学を出たことが誇りだった父に
大阪大学で最後を迎えてもらいたいと思い
父のために
自信塾の保護者の方が
その環境を整えてくれる優しい人がいると
話をしましたが
父はその元気もなく
今の病院の個室がいいと言い
そこに留まりました

 

 

 

 

 

 

その方には
今でも感謝しております

 

 

 

 

そのあと

奇跡が起こります

 

 

 

 

 

 

 

抗がん剤がきいたのです
父の全身の癌が
ペット画像から消えていました

 

 

 

 

 

もちろん
安心はできません
でも
あきらかに
癌が消えているのです

 

 

 

 

 

「こんなことがあるんだな」
本当に思いました

 

 

 

 

 

 

 

父に聞きました
退院したら何がしたい?

何を食べたい?
どこに行きたい?

世界中どこにでも連れて行ってやろう
そう思っていました

 

 

 

 

 

 

 

 

父は僕を見ながら
「生徒に数学とか勉強を教えたい」
そう、病室でつぶやきました

 

 

 

 

 

僕は、なんか
泣けてきましたね

この人は人生かけて
心の底から
勉強を教えることが
好きなんだなって

 

 

 

 

 

 

 

父が退院し帰宅しました
多くの元教え子が
父のもとにかけつけました
もう僕より年上の大人ばかりです

 

 

 

 

 

嬉しそうにする父
泣いている教え子さん

 

 

 

 

 

息子として
ほほえましい気持ちになりました

 

 

 

 

 

 

その夜
父が僕に言いました
「お前は自慢の息子だ」と

 

 

 

突然
面と向かって
はじめて言われました

 

 

 

 

 

僕はどうしていいかわからず
「まだまだ、だよ」と
答えてしまいました

 

 

 

 

 

 

 

本当は
本当は
「ありがとう、お父さん」と
言いたかったのです
その言葉を僕はずっと
かけてもらいたかった

 

 

 

 

 

 

この1月から
自信塾に
僕の父の教え子の子供さんが
入塾しました

 

 

その子のお父さんを
僕の父が教えました
小さかったそのお父さんも大きくなり
子供が生まれ
その子を
次は僕が見させてもらいます

 

 

ありがたいことです

その子も教師になりたいそうです

 

 

 

 

 

 

人がつながるって
本当にいいことです

 

 

 

 

 

 

 

 

僕の母はもう他界していませんが
父には母の分まで
親孝行をしたいと思います
そして
僕と父の距離が
少しだけ近づいたこと
母はきっと
喜んでくれていると思います

 

 

 

 

 

「お母さんは
お前のことを本当に期待してた
あの子は人を救う
すごい人になるって
今のお前を
お母さんに見せてやりたい」
父が僕によく言います

 

 

 

 

 

 

 

とても他人に
自慢されるような
そんな出来の言い人間では
ないのですが

 

 

 

 

 

 

母が亡くなった38に
僕も追いつきました
僕が数学を教えていることも
母は向こうで
喜んでくれてるのかな

 

 

 

 

 

父には
残りの人生を
1日でも多く
生きてもらいたいと
心から思います

 

 

 

息子として
そして
同じ塾長として

 

 

城崎温泉に連れて行ったときの

写真です

 

 

 

 

 

 

 

 

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